熱帯の暗闇
アンディ・ハーパーの作品を見たあとにはJ・G バラードの作品の「沈んだ世界」(1962)について徹底的に書きたい衝動に駆られる。 そもそも彼は近年の作品に、この小説の章を参考にし、彼の作品と小説のムードが強く関わっていることをほのめかしてきた。 本を要約すれば、文学評論界で安心して立証できて、支えとなるものをたやすく供給できる。 しかしそれは今のところは我慢しなくはいけない衝動なのだ。 道しるべもなしに言語形態のあいだに宙吊りにされているという感覚は、この絵画が密かに伝えようとしていることである。 つまり、わかりやすい台本を見せておきながら、見る者を無力にし、盲目的な確信へと引きずり戻すというやり方は、ひどい仕打ち(つまり図式の意味を説明すること)と同じである。
ハーパーの絵はまるで、有害な花がぎっしりとつまったパノラマを表現しているかのようである。 これが植物であろうが何であろうが、息が詰まるほどにすみずみまでぎっしりと詰まっている。 そしてキャンバスをもはみ出し、それはポロックが提案した、芸術家の絵画的な豊富さが永遠に続くという、求心的な構図が絵画の完全性を彷彿とさせる。 いかに大きなキャンバスでも、それは無限に続くもののほんの一部でしかない――そのアイディアはここではただの不愉快なすり込みにしかない。 ハーパーの別の絵を見てみると、息を呑み、そして同じジャングルの別の角へと突き落とされる。 それは灰色に近い緑の悪性の熱帯、濃赤色のさやが不気味に育つ場所、しま模様のツルが奥地へ手招きするように伸びている場所、そして銀色の鎖のようなものがやぶの中にうずめいている様子が、擦れて光っているがい骨の破片であることを強く暗示している場所なのである。
彼のいくつもの作品にくり返し現れる偶像的な部分は、突然異変的な理屈と、内部にある一貫性を表している印象を加えている。 しかしながら、これ以上には私たちの目前に広がる二次世界に対するとっかかりを見つけるのは難しい。
空間的に惑わせる遠近法で、これらの暗いつると疲れ果てた花たちは、まるでだまし部屋の鏡の中で不安にさせるように写っているかのように流れ、うごめいている。 ハーパーの一見バロックのような構図は調子よく動きまわり、大量の植物たちは緑の渦にのみ込まれているようだ。 しかし、決定的な一歩が踏み出されるのは、絵の具が表現する役割から離れたときである。 クローズアップすると、植物の表面は、単に特定の筆の筆跡という要素にしかすぎない。 例えば、つるなどは単に筆を引きずった跡で、その不均一な絵の具の塗り具合は光と影を模造している。 描写はまるで、絵を描く過程においてたまたまできた副産物に過ぎないかのようである。
この実利主義な見解はおそらくハーパーの物の見方である。 彼は、絵画の特質に対して継続的に探求されてきた、客観主義の復興が絶頂期にあった90年代に画家になった。 そして、いまではそのピューリタンな酷評から脱したのであれば、画家の手法ついていうなら、彼はそれら非現実的なお荷物からは無縁である。 しかし、彼がだんだん達しようとしているのは、客観主義の初期の不合理な空想をぶり返すことなく、神秘的な感じですらある奥深さを中間地点に戻す絵画の手法である。 言いかえるなら、ハーパーのアートは、ある厳格な合理性が交わり、お互いにはね返しあっている。 それは、解答の拒否ということで、つまり言葉では言いようのない位置にある絵画という、新しい厳格なアプローチによって、以前は主に解決不可能だと考えられていた彼の絵に、非常に深いクオリティーを与えている。 潜在的な真相は、これらの絵の周辺を旋回しているが、どれもうまくあてはなまらない。 ある人は、近未来に訪れる遺伝子工学の世界を恐れるラッダイト運動(機械化反対運動)としてのアートと見るような、単に人工的自然の比喩を彼の作品にかさね合わせるかもしれない。 もしくは、客観主義に特権を与えつつ、単に「絵画のための絵画」とも言うかもしれない。
実際には、どの解説で固定させようとしても、ハーパーのアートには比較的いたずらっぽい要素、というまったく別のものが常に存在する。 一番近いものは、機械的な世界についての不安が具体化されていることである。 ここではアーティストは、自己を隠してただ筆を下ろす、神の代理人――それは、自分たち自身と、自然の壮大な計画をただ驚いて見つめる人間たちを創造する象徴――である。 ここで、ハーパーの絵を特徴づけている不愉快なまでの肥沃が、まさにそれである。 自然の異常発生。 それはただ自然にとっては、好条件が重なったとき起こることなのだが。
ここで、やっと先に述べた「沈んだ世界」に到達するのだか、このことが小説の中で起こることに似ており、世界は完全に人の手に負えないものとなっている。 地球温暖化は進み、氷河はすべて融け、生き残った人類は今では温暖になった北極、南極圏へと移住し孤立している。 そのほかの地はすべて三畳紀へと逆戻りした。 小説の舞台となっているロンドンは水浸しになって、周りはジャングルに囲まれている。 そこには、巨大な裸子植物や100フィートもあるスギナ、怪物のようなシダが生息し、住民は主にトカゲや巨大なワニたちだ。 ここでのバラードの書き方はご都合主義だ。 構成力は彼の長所ではない。 (科学者たちが、これら太古の生物たちが、原始人の奥深い神経単位の記憶を再発させるきっかけとなっていると追求したあと、物語は新しく登場した海賊との一連の衝突から残忍な追跡、といった方向に落ちていく。 この小説の愉快さはむしろ、水没した街と、熱帯の瘴気がそこを覆っていく様子が目に浮かぶようなバラードの幻想的な描写にある。 そして、ハーパーの作品にて、見る者は人類のこの致命的な退化の無意味さを感じとる。 つまりこれは、気候条件が合えば、単に自然が自然として行うことだからだ。
そこで、ハーパーのアートに対する解釈ができるかもしれない。 おそらく、文字どおりで味気のないものだが。 ハーパーの暗い絵画と、バラードの苦しいほどに日に照らされたシーンたちは、お互い反対の位置に存在し、ほんのまれに相互的な入れ替わりを許している。 ハーパーはおおざっぱにでも小説の中のある特定のシーンを思わせる絵を描くことはめったにない。 小説にある「The Ballad of Mistah Bones」の章と、ハーパーの同じタイトルの絵には、どちらにもダムの様なものが描かれている。(小説では物語の終わりごろに登場し、爆破されて聖書の大洪水を解放している。) しかし、ハーパーの堤防は近未来の素材のような黒光りのする筆づかいで描かれている。 比喩表現のイメージを埋め合わせるのにこうしたトリックは必要である。 そうしないと、手っ取り早く物質的な効果の役割を果たしている堤防と、その周りに自己主張をせずに散在した植物たちとが、決定的に切断されてしまうからだ。 これらの側面はどちらも偽であるが、別の秩序を持った虚偽に属している。 形式的な壊れた橋と、小説の中のゆがんだ地鳴りとの間で、ハーパーの絵は暗く、見たこともないグラマラスさで見る者を惹きつけながら、解釈のとっかかりを否定する。
見る者はいつもハーパーの絵に対して完全な知識を得ることができないので、一方的な片思いのような気分に陥る。 これらのかき乱されたパターンを記憶するのは不可能だ。 絵画の点から言っても、分類するのは難しいとはっきりしてる。 「沈んだ世界」のつかみにくい部分は、休みなく起きる代用から発生している。 現実は内部空間へと崩れていき、内部空間は潜在的に現実を再構成している。 古代の自然環境がどのようにしてそれら寄生動物を退化させていったのかを理解した科学者は、気味の悪いデルタ地帯と、自律神経の浸水した光り輝く砂浜を探索するのが、彼の使命だと思っている。 他方では、沈没したロンドンプラネタリウムの丸天井が「ベルベットを張った子宮」になり、その後、「深く、取り返しのつかない精神病の天井内部」として空が現れはじめる。
このランドスケープは、人間の意識の中に入り込んでくる。 ちょうどスタニスワフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」(1961)∗のように、意識に侵入し、支配し、そしてとって代わる。これはハーパーのもう一つの標準だ。ハーパーのどの作品も、樹木に絡まる植物や、無秩序にさえ見える考え方は、内部空間の推測と、外部空間との留め木の役割をしている。 しかし、この両極端さは、彼のアートにおいては、その両極を行き来することほどには重要ではない。つまり、精神的効果に対する圧迫の方が重要なのだ。 ある一定の状況を超越しているハーパーの領域は、ヤヌスの鏡を実践しているようなもので、感覚の鋭い力として作用する、ありあまる物質、もしくは、催眠作用のある新しい思考を企てている知られざる領域なのである。
∗ 「ソラリスの陽のもとに」は「沈んだ世界」と同様に、主人公の名前がKで始まり、未知の存在に遭遇するSF小説。 カフカを想わせるミステリアスな構成は両作品に現れている。